映画『シックス・センス』あらすじ・解説・レビュー

こんな方へ

・孤独や疎外感を感じている人
・社会に息苦しさを感じている人
・人間関係に悩みがある人

〔 こんな方は控えてください… 〕
・怖い映画が苦手な人 ※緊迫するシーンもあります

本サイトでは気分や目的別にカテゴリー分けをして作品をご紹介してします。他の作品も是非ご覧下さい。

作品情報・あらすじ

  • 作品名(原題):シックス・センス(THE SIXTH SENSE)
  • 制作年度:1999年
  • 上映時間:107分
  • 監督(制作国):M・ナイト・シャマラン(アメリカ)
  • 主な受賞歴:ー

死者が見える少年と、彼を支える精神科医の葛藤と克服の物語

主人公のマルコム・クロウ(以下、マルコム)にとって、その日は忘れられない日となった。

マルコムは小児精神科医。今まで、多くの子供たちを救い、数々の功績を残してきたマルコムは、市から表彰を受けたことを祝し、美しい妻アンナ・クロウ(以下、アンナ)と特別なひと時を家で過ごしてきた。

しかし、マルコムたちがリビングで幸せな時間を過ごしている時、自身の病気を治せなかったことでマルコムに恨みを持つビンセント・グレイ(以下、ビンセント)が窓ガラスを割り彼らの寝室に侵入していた。

不法侵入をし、明らかに様子がおかしいビンセントに戸惑いながらも、マルコムは何が目的かを問いかける。するとビンセントは、10年前にマルコムの治療にかかるも自分を救ってくれなかったこと、怪物と呼ばれ続け悲惨な人生を送っていたことを告白する。

もう一度治療しようと呼びかけるマルコムだったが、ビンセントの怒りはおさまらず無残にも銃で打たれてしまう。
そして、ビンセント自身も彼の頭を銃で打ち抜き、自殺をしてしまうのだった…

舞台は一年後の秋口にうつる。

ある街のベンチで、マルコムは9才の少年コール・シアー(以下、コール)を探していた。
資料にある情報によると、コールは親の離婚により情緒不安定とのこと。マルコムの新しい患者のようだ。

コールは家から出てくるが、マルコムとの出会い頭に逃げるように立ち去ってしまう。更に、コールはいつも何かに怯えているように辺りを見渡している。学校でも孤立しており、手の付け所がないコールだったが、マルコムの決死の努力も実り二人の距離は徐々に近づいていく。そして、マルコムに心を開いたコールはやがて誰にも言ったことのない秘密を打ち明ける。

コール・シアー:僕の秘密を聞いて
マルコム・クロウ:いいとも
コール・シアー:死んだ人が見えるんだ
マルコム・クロウ:夢の中で?起きてる時に?お墓やお棺の中にいる死人を?
コール・シアー:ふつうに歩いてる。お互いには見えない。見たい物だけが見える。死んだとは思ってない。
マルコム・クロウ:よく出てくるかい?
コール・シアー:しょっちゅうだ。どこにでもいる。この話、誰にも言わないで。
マルコム・クロウ:言わない。約束する。
コール・シアー:眠るまでいてくれる?
マルコム・クロウ:もちろんだ

「シックス・センス」マルコム クロウ ・ コール シアー 会話  原文ママ

それは「死んだ人が見える」という秘密だった。それも「どこにでもいる」とのこと。
第六感(シックス・センス)をもったコールは、家でも、学校でも、普通の道でもそこら中で死んだ人間と出会い、怯え続けていた。そして、誰も持たない歪な力を持つが故に、周囲の人間からも化け物扱いをされ、母親の理解も得られずに辛い思いをしていたのだ。

驚愕の事実を知ったマルコムは頭を悩ませ、「自分では力になれない」と一度はコールから離れようとした。しかし、見えないに病に苦しむコールの姿を、かつて救うことのできなかったビンセントと照らし合わせ、どうしても彼をほっておくことはできなかった。まるで償いをするかのように必死になるマルコムと、悩みを克服したいと強く願うコールは再び力を合わせ、彼らは運命を受け入れながら前に進んでいくのだが…

本作『シックス・センス』は、死者が見えるという“第六感(シックス・センス)”に苦しむ少年コールと、彼をサポートする小児精神科医マルコムが悩みや痛みと向き合い懸命に生きていく姿を描いている。一見、ハラハラするようなミステリーやホラー映画にも思えるが、人間が持つ勇気や繋がり、愛等のヒューマンドラマとしての要素も存分に組み込まれており、予測を裏切る展開や、怖さと優しさを兼ね備えたその矛盾が見る者を満足させる。

1回目と2回目以降では全く違う角度から楽しむことができる、作品としての完成度も非常に高い一作です。是非、ご覧下さい。

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解説・レビュー ※ネタバレ含む

懸命に生きるコールとマルコムから学ぶこと

人は誰しも、大なり小なり悩みや弱さをもって生きている。

本作『シックス・センス」は、“死者の世界”をテーマに人間の内情を映した物語。
登場人物たちが悩みを克服していく姿は、現実に生きる私たちにも通ずるものがある。

M・ナイト・シャマラン監督の作品は度々、ホラーやミステリー的な要素が先行しすぎてその真意を理解されないことがある。しかし、同監督の作品は共通して、淡々と暗くミステリアスな物語の裏側に、誰もがもつ人間の繊細な感情を映し出している。それも、飛躍的に誇張して描くのではなく、ほんの少しだけ背伸びをしたような、小さな奇跡のようなものを何か特別な力を持つ主人公の奇数な運命とともに描いており、表と裏にあるもののギャップと矛盾に何とも言えない魅力がある。

そして、本作『シックス・センス』はその真骨頂でもあり、最傑作とも言える。

死者がテーマとなっているだけに、ハラハラするような怖い描写があるのは事実であり、ホラーが苦手な人には目をそむけたくなるシーンもしばしばある。しかし、そんな怖さもまた、死者が見えるという力に苦しむコールの心情をより近いものにしてくれる。

もし、これが“現実”であったら、コールが抱える恐怖や緊迫感はテレビの向こう側で起きているものとは比較できないほどだろう。そんな極限の状況の中で成長していくコールの姿は、私たちにいくつかの学びを与えてくれる

ここでは、私たちの日常にも当てはまる、下記の3つの観点から学びを読み解く。

  • 人は「見たいこと」しか見えていない
  • 「向き合う」ことで克服する
  • 「分かり合える」だけで人は救われる

勿論、本作はフィクション映画だ。しかし、見るもの多くの人の感情を揺さぶったことも事実である。

これを映画に留めず自身の糧にするため、現実的な目線からマルコムとコールの成長要因を考える。

人は「見たいもの」しか見えていない

※ここからは本作の結末を知っているという前提で書きます。内容を知らない方はお控え下さい。

人は、自分が思っている以上に、世界の本当の姿を知らない。

ものや情報が溢れるこの世界で、私たちは日々多くのものを目にし、膨大な量の情報に触れる。しかし、物理的に触れたものの中で、私たちが本当の意味で真実を認識できているものは相当少ない。

思っている以上に、私たち人間は自分にとって良いものだけを捉え、都合の悪いものには蓋をする。だが、本当に大切な真実は、すぐ目の前にあるのかもしれない。

本作はまさにそんな“人間の性”を見事に体現しており、見るもの全員をだますということでそれを証明する。

つまり、「実はマルコムは死んでいた」という結末こそが本作の大きな仕掛けでも醍醐味でもあるが、それがまさに「人は見たいものしか見えていない」ということの本質でもある。

そして、真実を知った上で作品を見返した時、そこには驚くほどに“大胆”且つ“そこら中”に仕掛けが散在していた。


本作で死者が表れる時、そこにはいくつかの共通点が存在する。

1.死者は死んだ時の姿で現れる
2.死者がそこにいるとき、空気が冷える
3.この世に現れる死者は、何か未練を残している
4.死者はお互いには見えない
5.死者は見たいものだけが見える。
6.死者は自分が死んだとは思っていない

まずは「1.死者は死んだ時の姿で現れる」について。主人公もマルコムも、実はずっと同じ青いシャツを着ている。たまにジャケットやベストを付けたり外したりすることがあったが、基本は銃で撃たれた夜に来ていたシャツで変わっていない(一部トレーナーを着ているシーンもあるが…)。また、母親に殺された少女も、絞首刑でなくなった学校の死者も、皆亡くなった“その時”の姿で登場する。

2.死者がそこにいるとき、空気が冷える」も立証されている。死者がコールの前に登場するとき、彼の吐く息が白くなる。これは少女の死者が出てきた時も、学校で死者と出会った時も共通している。また、ラストシーンで寝ているアンナの元にマルコムが寄り添った時、アンナの吐く白い息をみて彼は自分が死んでいたという確信を得る。

続いて「この世に現れる死者は、何か未練を残している」だ。コールの前に現れる死者の多くは、苦しみ、怒りに満ちている(ように見える)。それが故に、無差別に人間を苦しめるために出てきたように思えてしまうが、実は違う。彼ら一人一人には明確な目的があり、それが解決されることで現れなくなる。いわゆる、“成仏”に近いことだろう。事実、“問題のない(=幸せに満ちている)”死者は本作では一度も登場しない。マルコムだって、ビンセントを救えなかったという強い“後悔”があるが故にこの世に残り、コールと向き合っていた。姿は見せていないが、亡くなったコールの祖母もそうだ。彼女は決して「怒り」「苦しみ」ではないが、娘(コールの母)に本音を伝えきれなかったという後悔があり、コールの前に姿を現す。

そして4~6。本作の核とも言えるこの仕掛けを、M・ナイト・シャマラン監督は大胆且つ見事にやってのける。

これら「4.死者はお互いには見えない」「5.死者は見たいものだけが見える」「6.死者は自分が死んだとは思っていない」の土台となってあるのが「5.死者は見たいものだけが見える」というルールだ。これが本作の核心ともいえるだろう。これが適応されるのであれば、”この世”に未練があって出てきた死者は、他の死者が見える必要がない。つまり「4.死者はお互いに見えない」が自然と成り立つ。また、自分が死んでいるということにメリットを感じる者も、考える人もいないだろう。これで同時に「6.死者は自分が死んだとは思っていない」も成立する。

では「5.死者は見たいものだけが見える」とは。
マルコムが書斎に入ろうとしてドアを開けようとするが、なぜかドアが開かないというシーンが登場する。実は、その書斎の前には棚があり、彼が死を自覚して初めて見えるようになったものだった。これはマルコムが生きている時には置かれていなかった棚だ。きっと、死んだマルコムのことを思い出すことがつらくなったアンナが意図的に封鎖したものだろう。

また、「結婚指輪」もそうだ。冒頭、指輪をしているマルコムだったが、ビンセントに打たれて翌年の秋に舞台が移ってから(死んでから)のマルコムは結婚指輪をずっとしていない。マルコムが亡くなった後、アンナがその指輪を保管していたからだ。そしてラストシーン。アンナが落とした指輪を見て、マルコムは自分が指輪をしていないことをようやく自覚する。

ここからはわかるのは、「見たいものだけが見える」というその原因は、「見たいもの以外は見ようとしていない」ということに近しい。

そしてそれは、死者だけでなく、私たち人間全員に共通する。
例えば、いつも通っている道でさえ、そこにどんな店があるかをほとんど答えられないことは往々にしてあるだろう。

それだけ私たちは多くのことを見ていない。
そして、根拠もないのに「わかっているつもり」になること。これが時として大きな過ちを呼び起こすことがある。

本作はそんな私たち“ミスリード”を利用しており、その伏線は数えきれないほど登場する。下記は、その一部である。

マルコムは“会話”した人間はコールだけ

ここでは「会話」の意味が重要だ。正確にいうと、マルコムに「返答」を返したのはという意味だ。

マルコムはアンナに何度か話しかけるが無視される。これは、無視しているのではなく、聞こえていないだけだった。ちなみに、結婚式のビデオを見ていたところを見ても、アンナはマルコムのことを愛し続けていることがわかる。マルコムがアンナとうまくいっていないと考えていたのは、まったくのお角違いだったということだ。

また、彼がコールの自宅を訪れた時、マルコムは母親のリンと対面に座っていた。
さもコールのことを話していたかのように見えるが、彼らは一度も話してはいなく、「2人が対面で座っている=会話している」という人間の“勝手な思い込み”を利用したものだった。

マルコムは一度も“物理的”な力を使っていない

マルコムはバス以外の乗り物にのっていない。
当然、アメリカ社会の中である程度の地位を持つ彼であれば車ぐらいもっているだろう。
しかし、コールとキラの元に向かう時も彼はバスにのっていた。また、マルコムが“ドアを開ける”場面や“お皿や本を動かす”シーンも存在しない。これは、死んでいるマルコムに物理的な力が備わっていないからであろう。

他にも、細かな仕掛けが多々あり、結末を知った上でもう一度見返すと、マルコムが死んでいるということに気づくためのヒントは滑稽なほどにそこら中に溢れていた。

むしろ、隠そうともしていない。

そんなヒントを見逃す理由は、私たちの思い込みだ。

・マルコムは普通にコールと話している
・死者には見えない見た目
・そもそも、マルコムは主人公だから…

等、たったそれだけの理由で、マルコムが死んでいたという選択肢を初めから捨て去っていたのだ。

極めつけは、コールが「死者のルール」をマルコムに話すところもだ。
コールが、「死者は自分が死んでいると気づいていない」とマルコム本人に話すところからも、きっと気づいてほしかったのだろう。

それだけ、私たちには目の前のことすら見えていない。
心から意識をしない限り、物事の本当の姿で認識できない。

そして、映画は二度見できるが、現実は巻き戻し見返すことはできない。
私たちが求めている答えは意外と近くにあり、それを見えなくしているのは自分自身なのかもしれない。

「向き合う」ことで克服する

M・ナイト・シャマラン監督の作品は不可解な作品が多い。

通常、フィクション映画ではすごい特殊能力をもったヒーローが世界を救ったり、才能のない人間の成長が大きな渦を巻き起こしたり等、まるで夢のようなサクセスストーリーが多い。

しかし、M・ナイト・シャマラン監督の作品では、中途半端に能力をもった人間が登場する。それも、あまりかっこよくなく、どちらかというと不器用だ(シックス・センス、アンブレイカブル 等)。

そして、彼らには共通して、人と違う能力を持つが故に苦しみや劣等感を抱えており、そんな苦難のなかでもがくことで“小さな奇跡”ようなものを起こしていく。

根本にある設定自体はフィクションなのだが、特殊な力をもつ者たちの「不器用な一生懸命さ」は妙に現実味を帯びている。フィクションだけど共感できる、そんな矛盾が他の作品にはないこの監督の魅力であるのだ。

本作でも、初めから白旗を上げていたコールを解決したのは、「死者と向き合う」というマルコムの提案だった。

コール・シアー:調子はどう?忙しい方が体にいい。僕に何か質問が?海兵隊第3大隊M中隊に所属、南ベトナムに出撃する
マルコム・クロウ:後でね
コール・シアー:どうかしたの?変だよ
マルコム・クロウ:そうだ。多分ね。”ヨ・ノ・キエロ・モリル”の意味は?スペイン語で”死にたくない”だ。彼らが何を求めてるのか。よく考えてほしい。まじめに考えるんだ。何を求めてる?
コール・シアー:助けだ
マルコム・クロウ:そうだ、私もそう思う。彼らは助けを求めてる。だから安心させてやりたい。
コール・シアー:どうやって?
マルコム・クロウ:聞いてやるんだ
コール・シアー:彼らが怒ってて、誰かを苦しめたいと言ったら?
マルコム・クロウ:そうは言わないと思う
コール・シアー:そう信じてる?
マルコム・クロウ:わからん

「シックス・センス」マルコム クロウ・コール シアー 会話  原文ママ

コールからしたら、地獄に突き落とされるような気分だろう。当人の身になって考えてほしい。

まず前提として、出てくる死者は怒りや苦しみに満ちている(ように見える)ことが多い。

死んだ時の姿で出てくるのだから尚更だ。現実世界では出会うことのない“無残な姿”になっていることが大抵だ。
また、事実として、コールは“物理的”にも死者に痛い目にあわされたことがある。コールが閉じ込められた暗闇であざを負って出てきたのはきっと死者の仕業だろう。
そして最後に、不安を払拭したがるように「信じてる?」と問いかけるコールに、対するマルコムの返答は「わからん」だ。

凶暴だとわかっているライオンに自ら向かうものがいるだろうか?
それも、唯一の頼りの存在もいざという時に近くにもいなく、何の後ろ盾もない。
大げさかもしれないが、コールからしたらそんな気持ちだろう。

それでも、コールは立ち向かった。
目をそらし、逃げ続けてきたものと向き合うことで解決した。

まずコールが直視した死者は、母親に毒薬をもられ殺された少女のキラだった。

キラは彼女の母親が食事に毒薬をいれているその瞬間を抑えた証拠ビデオを持っており、それを父親に渡すようにコールにお願いした。きっと、妹の身を案じたのだろう。

初めてキラに出会った時、嘔吐を繰り返し苦しむ彼女の姿は、言葉を選ばないで言うと“狂気”そのものだ。しかし、そんな彼女の願いは“復讐”ではなく、残された大切な妹の“幸せ”だった。見た目は恐ろしい姿でも、蓋を開けてみれば心優しい幼気な一人の少女だった。

しかし、人はしばしば、見かけ“のみ”で全てを判断する。

言葉にせずとも多くを考えている人がいる。声を荒げていても守ってくれている人がいる。逆に、見かけが優しくても中では恐ろしいことを考えている人もいる。

“外見”は物事を表す最もわかりやすい一つの要素であることは事実だ。
しかし、私たちがそれだけで判断することで、多くの過ちを犯していることもまた事実。

人は「見たいものだけを見る」反面で、「見たくないもの」や「知らないもの」には蓋をする。

「怪物」「異常者」「変わりもの」という言葉を使い、そこにある真実から目を反らす。

しかし、コールは気づいたのだろう。
これ以上逃げ続けても何も変わらないと。
例えそれがいばらの道であろうと、課せられた運命や環境を変えられないのであれば、自分が変わるしかないのだと。

今の社会、多くの選択肢をもつ私たちは勝てないものや未知なるものはやり過ごすことができる。

しかし、それが通用するのは一時的だ。
人生には、絶対に避けられない苦難が表れるときがある。
そんな時、勇気をもって向き合うことを、本作を見て思い出したい。

「分かり合える」だけで人は救われる

そしてコールは、死者との付き合い方だけでなく、母親との関係も好転させていった。

コールが何よりも恐れていたのは、母親に理解されずに見放されることだ。愛する母親からも恐れられるぐらいだったらと、コールは“第六感”のことを隠し続けて生きてきた。しかし、そんな秘密を隠してうまく立ち振る舞えるほど起用ではない。コールの周りばかり明らかに不可解なことがおきることに、母親もまた苦しんでいた。

そんな二人の距離を近づけたのが「会話」だ。
キラとの話が解決し、コールもようやく死者との生活にも慣れてきたころ、大仕事を終えたマルコムはコールに最後のアドバイスをした。

マルコム・クロウ:すばらしかったよ
コール・シアー:ほんと?
マルコム・クロウ:もう一つ、トミーが間抜けに見えた
コール・シアー:奥さんと話す方法を教える。眠ってる時に話すんだ。自分で意識しないで聞いてる。もう会えないの?
マルコム・クロウ:僕らは話し合ってきた。君も母親と素直に話すべきだ。
コール・シアー:また会えるふりをして。おねがいだ。
マルコム・クロウ:わかった。もう行くよ。明日会おう。

「シックス・センス」マルコム クロウ・コール シアー 会話  原文ママ

それはただ“話す”という意味ではなく、“打ち明ける”ということ。
真の自分の姿を“さらけ出す”ということ。

コールは、祖母と母親の二人しか知らないはずの秘密を母親に話すことで、亡くなったはずの祖母と話したことについて母親に伝えた。話を聞いた母親もまた、秘密を打ち明け怯えるコールを強く抱きしめ、愛していることを涙ながらに伝えるのだった。

二人の隔たりがとれた瞬間だった。
彼らはずっと互いのことを想っているのに、分かり合えないことに悩み続けてきたのだ。
ようやく「本当の会」ができ、心から互いに通じあえた時、コールも母親もまた安堵の表情を浮かべていた。
分かり合うことこそ、2人がずっと追い求め続けてきた幸せだったのだろう。

そんなコールと対象的な存在がいる。冒頭に登場し、自殺をしたビンセントだ。
彼は、自分の元医師でもあるマルコムの家に侵入し、背負ってきた辛さ全てを彼にぶつける。

マルコム・クロウ:ここはロカスト街47だ。家宅侵入だぞ。
ヴィンセント・グレイ:何もわかってない
マルコム・クロウ:ここには麻薬類など何もないぞ
ヴィンセント・グレイ:独りきりだと怖いだろ。おれは怖い。
アンナ・クロウ:何が欲しいの?
ヴィンセント・グレイ:彼が約束したものだ。約束を果たせ。何てことを!
マルコム・クロウ:君は誰だ
ヴィンセント・グレイ:わからないのか。自分の患者を忘れたか。下町の病院で”片親の家庭””情緒不安定”怖かった。両親の離婚で心に傷を負ったと。違う、そうじゃない。おれを見ろ!もう怖くない。
マルコム・クロウ:考えさせてくれ
ヴィンセント・グレイ:10年待ったが何もできなかった
マルコム・クロウ:フリードキンか。
ヴィンセント・グレイ:化け物と言われた
マルコム・クロウ:サムナーか
ヴィンセント・グレイ:おれは化け物じゃない
マルコム・クロウ:ヴィンセント‥ヴィンセント・グレイか。思い出した。静かで利口な子だった。親切だった。思いやりがあった。
マルコム・クロウ:治らなかったとは悪かった。だがもう一度だけチャンスを…
ヴィンセント・グレイ:(マルコムに銃を打ち、自らも自殺する。)

「シックス・センス」マルコム クロウ・ヴィンセント グレイ 会話  原文ママ

誰にも“分かってもらえなかった”辛さが、最悪の形で顕在化したケースだ。

本人が認めていることからも、マルコムがビンセントを治しきれなかったことは事実だろう。しかし、マルコムがビンセントに何か悪いことをしたかというと、決して故意に彼が何かをしたわけでもない。

しかし、結果としてそんなマルコムをビンセントは殺してしまう。

ビンセントにとって最もつらかったことは、周囲の大勢に「怪物」と罵倒されることより、唯一の心のよりどころだったマルコムが自分のことを理解してくれなかったことだったのだろう。

周囲から「怪物」だと虐げられ、誰にも理解されない世界でもがき続けた。
両親の離婚が原因だと決めつけられ、本当の自分を見てもらえなかった

ビンセントのそんな苦しみはやがて怒りに変わり、殺人、そして自殺という最悪の結末を迎えてしまった。

では、最悪の結末を迎えたビンセントと、苦しみの中で成長できたコールの違いは何だったのだろう。

それは、分かり合える相手がいたこと。
そして、互いに分かり合おうという努力をしたこと。

人は、孤独を一番に恐れ、多勢であることに優位を感じる。

「人と違うこと」や「少数派であること」。
これは社会の中でも虐げられる大きな要素だ。
本作は、そんな人間の愚かさや哀しさを表す一方で、人の愛や繋がりの強さも描かれている

・見た目は恐ろしくとも、本当は優しい心をもつ死者たち
・真実を伝えることで、仲を取り戻せたコールと母親
・母の愛に疑心案着になっていたリン(コールの母)と祖母の時を超えた和解

そして最後、アンナにずっと無視され続けてきたマルコムも、その真実(無視をしていたのではなく、聞こえなかった(死んでいた)だけで、アンナは心からマルコムを想っていた)に気づくことでマルコムはこの世に“本当の意味”で別れを告げることができた。
気のせいか、マルコムのことが見えるはずもないアンナもまた、マルコムの別れで安らぎを得られたような表情が見えた。

時に、社会は残酷である。自分と違う”変わり者”に冷たく、“知らない”ものを攻撃する。

例えその中身を詳しく知らなくとも、何か標的があれば人はこれ見よがしにたたきのめす。そして、四方八方から飛んでくる言葉の暴力に、人の心は殺される。

しかし、ほとんどの攻撃的な言葉には、大した理由はない。

・人を落とすことで自分の立ち位置を上げるため。
・正義感を振りかざすことで、優越感を感じれるため。
・周りと同じ波にのることで社会と一体になっている気分になれるため。

そんな自己欲求を満たすため、人は正義という“大義”に身を包みながら平然と他者を攻撃する。

真摯に向き合ってくれる1の声と、本質を考えずに発する100の声があった時、自分が本当に耳を向けるべきところはどこなのか。

そして、大切な存在が大きな悩みを抱えている時、自分はどんな存在でいるべきか。

本作「シックス・センス」は社会の中であるべき自分の姿を改めて考えさせてくれる。

特別なことはできなくても、ただ真剣に向き合うだけで救われることもある。
人は「分かり合える」だけで、幸せになれるのだ。

受賞歴

その他受賞歴
放送映画批評家協会賞・ピープルズ・チョイス・アワード・MTVムービー・アワード ・サテライト賞・ティーン・チョイス・アワード 等

賞が多すぎてどれがすごいのかわからない….」という方はこちら!
 👉 映画賞ってどれがすごいの?

M・ナイト・シャマラン監督の別作品

映画監督:M・ナイト・シャマラン
・2019年:ミスター・ガラス(監督/製作/脚本)
・2017年:スプリット(監督/製作/脚本/出演)
・2015年:ヴィジット(監督/製作/脚本)
・2013年:アフター・アース(監督/製作/脚本)
・2010年:エアベンダー(監督/製作/脚本)
・2008年:ハプニング(監督/製作/脚本)
・2006年:レディ・イン・ザ・ウォーター(監督/製作/脚本/出演)
・2004年:ヴィレッジ(監督/製作/脚本)
・2002年:サイン(監督/製作/脚本/出演)
・2001年:アンブレイカブル(監督/製作/脚本/出演)
1999年:シックス・センス(監督/製作/脚本)

「そもそも映画作りに誰が一番重要なの?」という方はこちら! 👉 映画作りのキーマンは誰?

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