映画『いまを生きる』あらすじ・解説・レビュー

こんな方へ
・社会の不条理に苦しんでいる人
・押さえつけられ自信を失った人
・教育的立場にある人
〔 こんな方は控えてください… 〕
・古い映画が苦手な人(1989年の映画です)
・淡々とした映画が苦手な人
本サイトでは気分や目的別にカテゴリー分けをして作品をご紹介してします。他の作品も是非ご覧下さい

作品情報・あらすじ
- 作品名(原題):いまを生きる(DEAD POETS SOCIETY)
- 制作年度:1989年
- 上映時間:128分
- 監督(制作国):ピーター・ウィアー(アメリカ)
- 主な受賞歴:アカデミー賞(脚本賞)
規律に苦しむ秀才達の学びと成長の物語
1959年、ニューイングランド・バーモント州にある全寮制エリート進学校「ウェルトン・アカデミー」
「伝統・名誉・規律・美徳」の教育理念を元に教育を進める全米屈指のこの進学校には、”立派”な将来を期待する親が我が子を送り込んでくる。彼らが望まれていることはただ一つ「良い大学に進むこと」、そして「望む職業に就くこと」だ。
そんな親たちの期待に応えるためにも学校側は生徒たちを過剰な規律で押さえつける。
厳格な医者の父親を持つ、ニール・ペリーは自分の意思なく物事が決定される学校生活に一律の不満を感じていた。優れた知能やリーダーシープを持ち合わせていながら、親にも学校にも自主性を奪われ、将来の夢を持つことすら諦めていたのだ。
そんなある日、本校のOBでもある英語教師のジョン・キーティングが不妊した。
彼は、他の先生とは異彩を放っていた。
キーティングはとにかく型にハマった授業をするのを嫌っていた。
教科書は破り捨て、生徒を机の上に立たせたり、外に出ることで違う視点を持たせり…
あげくのはてには、詩を教えるキーティングは、ホイットマンの詩のある一節を引用し自身のことを「おぉ船長、我が船長」と生徒に呼ばせる。
自分自身もこのキーティング自身もこのウェルトン・アカデミーで過ごしたキーティングは、これらの型破りな授業を通じて生徒たちに”自主性”を持つ素晴らしさを伝えようとする。自由に考えを持つこと、自らの意思で考え生き抜く力を授けようとする。
心から本気でぶつかってくるキーティングに生徒たちは徐々に心を動かされる。
初めは「変な奴」という半信半疑だったが、キーティングの思想に惹かれ興味を持ち始める。
キーディングに最も影響を受けている生徒のニールは、ある日キーティングの過去の記録を見つけ出す。そして、キーティングが参加していた「死せる詩人の会 (Dead Poets Society)」というクラブを見つけ出す。
キーティングは、ホイットマンの詩の一節になぞらえ自身を「おお船長!我が船長よ」と呼んでくれと言い、教科書を破り捨てさせたり生徒を机の上に乗せたりと型破りな授業を展開する。
キーティングはこの授業を通し、生徒に詩の素晴らしさや常に別の視点を持つ大切さ、自由に考え生きる大切さを説き「いまを生きろ」というメッセージを伝えようとする。
最初は戸惑っていた生徒たちだったが、徐々に彼の思想に惹かれていき、将来の夢を考え始める。
彼に影響を受けた生徒の一人であるニールは、ある日キーティングが学生時代に所属していたクラブ「死せる詩人の会(Dead Poets Society)」の存在を知る。
聞いたことのない不思議なクラブ名に興味を持ったニールたちは、キーティングにその活動内容を聞きに行く。
すると、キーティングは少し嬉しそうに微笑み「みんな秘密を守れるか?」と切り出した。
”死せる詩人の会”は人生の真髄を吸収する。ソローの一節で会の幕が開く。古いインディアンの洞穴で順番ソローやホイットマン、シェリーを読む。時には自作の詩を読み魅力的な時を過ごす。(男どもが集まって詩の朗読?)そうじゃないさ。僕らはロマンにあふれていた。詩はまるで蜜のように僕らの口から流れた。心は空を舞い、女は酔い神が生まれた。素晴らしい一夜だろ。
「いまを生きる」キーティングセリフ 原文ママ
その言葉に感化されたニールは、同部屋の友人のトッドなどの友人を誘い込み「死せる詩人の会」の復活に動く。「学校にバレたらまずい!」と初めは拒否していたメンバーも、ニールのリーダーシップに引っ張られ多くの仲間たちを巻き込んでいく。
この「死せる詩人の会」の活動や全身全霊を通して「いまを生きろ」と伝えるキーティングの影響を受けて、規律に縛られていた生徒たちは徐々に自主性を学び始めるのだが…
本作『いまを生きる』はアカデミー賞脚本賞を受賞し、今も尚様々な場でリメイク番が作られるような名作。理不尽に規律や権力を振りかざす大人たちの中で、キーティングの授業を通して「自由」を学ぶ生徒たちの姿を描く。自律することの美しい一面を持ちながらも、残酷で不条理な社会の一面も現実的に描かれている。規律と自立、自由と幸福、夢と現実など、生きることへの命題が問われる作品。大人・子供問わず社会の不条理に苦しんでいる人や、教育的立場にある人には是非おすすめしたい一作です。
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解説・レビュー ※ネタバレ含む
希望は”悪”か それとも”光”か

本作は「いまを生きる」はレールの上で生きることを着せられた秀才たちの物語。
優れた知性と豊かな家庭環境を持ちながら、大人たちが望む人生の路線に縛られつけられた青年たちが「自由」をテーマに人生の真髄を学ぶ。
子供達の意思を全く見ることもない大人の中で、一人異彩を放つ存在の教師、キーティングの授業をきっかけに少年たちを独立した心を身につけていく。
型破りのキーティングの授業や、「死せる詩人の会」の活動を通し成長していく青年達の姿は見ているだけで微笑ましく、自由や希望の底なしの力を感じさせてくれる。
しかし、物語は悲しい結末を迎える。
親に縛られ、医者になることを強制されているニール。彼は、キーティングの言葉に感化され自分の本当にやりたいことは芝居だと気づく。しかし、芝居をすることは父親に認められず「すぐにやめろ」と一蹴されてしまう。それでもニールは演劇を強行したが、それに激昂した父親は転校をすることを命じ、その晩ついにニールは自殺をする。
そして、ニールの自殺の原因としてキーティングが罪を着せられる。ニールが両親の命令に反することを承知で、自由な発想と称して身勝手な行動を奨励し演劇への妄想を助長させていたと…
ここで考えたいのは、希望は”悪”か、それとも”光”か。と言うこと。
つまり、ニールが自殺した本当に理由についてだ。
途中、キーティングの授業を見たマカリスター先生が下記の会話をする。

マカリスター先生:興味深い授業をしていたね
「いまを生きる」キーティング・マカリスター会話 原文ママ
キーティング:驚かせて失礼
マカリスター先生:いや かなり面白かった 指導ミスだがね
キーティング:そうですか?
マカリスター先生:”芸術家たれ”と教えるのは危険だ 自分たちがそうでないと知ったら君を憎むぞ
キーティング:芸術家?”自由思想家たれ”だ
マカリスター先生:17歳でかい?
キーティング:皮肉屋なんだな
マカリスター先生:皮肉屋ではない 現実主義者だ ”愚かな夢に縛られぬ心の持ち主こそ幸福なり”
キーティング:”真の自由は夢の中にある 昔も今も そしてこれからも”
マカリスター先生:テニスン?
キーティング:キーティング
確かに、キーティングに出会わなければニールは芝居という夢を見つけることはなかったかもしれない。自由な発想も持たず、医者になることだけを目指していたかもしれない。
おそらく、ニールを最も苦しめたのは夢と現実のギャップだ。
芝居という新たな希望と、親に逆らうことはげきないという無残な現実への落差だろう。
希望と失意のその落差に人は絶望を感じる
つまり、そもそも希望を持たずにいたらその落差さえも生まれなかっただろうということだ。
そしてまだ幼いが故に、その感情を消化できなかったニールは命を絶つという最悪の選択をする。
「”芸術家たれ”と教えるのは危険だ 自分たちがそうでないと知ったら君を憎むぞ」とマカリスター先生が言っているように、大人たちは希望を持つことの危険性を知っている。
希望は人を輝かせる糧にも、殺す糧にもなり得る。
少なからず、長く生きてきた大人たちは身を持ってこれを経験しており、そういった意味ではマカリスター先生の表現は正しい。それも一理あるのかもしれない。
しかし、希望や夢なく生きていることが本当の意味で「生きている」と言えるかは甚だ疑問だ。

キーティングの授業を聞いている時のニールの目を見て欲しい。
まるで初めておもちゃを与えられた幼子のように、その目は興味と希望で輝いている。
そして、規律や不安などを一切寄せ付けず、多くの人間を巻き込み「死せる詩人の会」を復活させるニールの行動力は凄まじく、その原動力はきっと希望だ。
大事なのはバランスを学ぶこと。
人はなぜゼロか100かの議論をしたがる。希望は必要か、不要かと。
人生はそんなシンプルではない。
希望が人に底なしのパワーを与える。
しかし、現実は甘くはなく誰しもが夢を掴める訳でもない。
そういった厳しい現実を学び、自分の力に変えていくこともまた成長だ。
ニールの自殺の話に戻る。
短期的に見ると、キーティングが感化しなければ、このタイミングにニールが命を絶つことはなかっただろう。
しかし、賢いニールがずっと親に従順に生き続けるだろうか。遅かれ早かれ、ニールは自分の意思を持って道を見つける。その時、同じような衝突が起きているはずだ。
(※誤解がないように言っておく。希望を失ったから命を絶つということは絶対に間違っている。生きていない限り新たな希望を見つけられない。そして、死は多くの人に絶望を与える。)
大事なことは、自らの意思を強く持ち、理不尽に負けない強靭を心を培うことだ。
キーティングの授業で”順応性”について触れているものある。
(3人の生徒に中庭を歩かせた後のセリフ)
「いまを生きる」キーティングセリフ 原文ママ
ご苦労さん 3人独自の歩き方とペースがある。
ピッツはのんびり屋 決して慌てない。キャメロンはいいか悪いか悩んでばかりだ オーバーストリートは頼りない。
そうとも、一目で分かる。けなしてない。
順応性の話をしたいんだ。自分の信念を貫き通すのは難しい。
誰も人とは違う歩き方をしたいと思う。なのになぜ手拍子をした?
人と同化したいのだ。
だが自分に自信を持たねば。他人から非難されようと、バカにされようともだ。
フロストの言葉だ “森の分かれ道で人の通らぬ道を選ぼう すべてが変わる”
君らの歩き方を見つけろ。自分だけの歩み 自分だけの方角を。
立派でも愚かでも構わん。
さあ、中庭は君らのものだ。人目を気にせず好きに歩け。
私たちはなぜか”枠”にはめたがろうとする。
それも、自分のことだけでなく人の人生まで枠で囲おうとする。

きっと、人が周囲と同化したがる(させたがる)理由はきっと安心感を得たいからだ。
先が見えない道を進むことは難しい。それが自分一人の道だった尚更だ。
だから、人は他社と一緒であることで安心感を得ようとする。自分の知らない道を進む者に恐れを感じ、否定する。
多くの人が社会の不条理に苦しんでいる。
そして多くの人が、知らず知らずのうちに自分自信も不条理を振りかざしているのかもしれない。
本作は「学校」という小さな世界を舞台で表現しているが、これはまさに私たちが生きる「社会」そのものだ。
人は弱い。私たちは被害者にも加害者にもなり得ることを肝に銘じたい。
「心」だけは誰にも奪えない

キーティングの教育方法にも賛否両論ある本作。
ニールの自殺、ダルトンの放校、キーティングの追放など、迎える結果は現実社会の厳しさを物語っている。
確かに、キーティングは学校組織という強大な権力に負けた。
一時的な結果を見れば、ニールの尊い命を失い、キーティングは学校を追放された。
結果、大切な生徒だけを残して去ることを余儀なくされたキーティングは「敗北者」だろう。
キーティングは組織のこわさも生徒たちに教えている。
ダルトンが校長を挑発するようなちょっとした”おふざけ”をして、学校に処分を受けた時のことだ。
キーティング:ダルトン たちの悪いふざけ方をしたな
「いまを生きる」キーティングセリフ 原文ママ
ダルトン:校長の味方を?人生の真髄を吸収しろと…
キーティング:愚かな危険を冒す事ではない 大胆さと慎重さは表裏一体だ その判断が大切だ
ダルトン:喜ぶかと…
キーティング:まさか 放校処分になるなんてバカらしい 好機を逃すぞ
いつだって組織は強者のポジションにある。
自分たちが負けないようなシステムで固め、邪魔な者や異端児は淘汰される。
そして、抗う者を見せしめに処分することで、立ち向かう意思さえも奪う。
その行き着く先が、学校にいる(キーティングを除く)先生達の姿だ。
学校や親にただただ従順に従い、本当にそれが子供達にとって正しい教育なのかを考えることすら放棄している。
あげくの果てには、生徒やキーティングなど、他者にまで同調圧力をかけてくる。
では、私たちは組織の中で従順に生きるしか道はないのか。
キーティングは単なる敗者で終わったのか。
そうではない。
キーティングは、生徒の心に小さな灯火を残した。
その意味は、本作のラストシーンに全てが映し出されている。
ニールの自殺の罪を着せられ学校を追放されたキーティングが校長の授業を受ける教室に荷物を取りに立ち寄った時、校長の圧力によってキーティングを庇えなかった悔根の念にかられたトッドが「おぉ船長、我が船長」と言いながら机の上に立ち上がる。

これは、キーティングの授業の一端で、自由の意思(物事を違う目線で見ること)を表したもの。学校組織に対しては、あまりにも小さな反抗かもしれない。
しかし、内気なトッドが勇気を振り絞って行ったその意思は、多くの仲間に継承された。
トッドの突如の行動に驚き静止させようとする校長だが、トッドに感化された周囲の生徒も机の上に立ち、去り行くキーティングに感謝の意を示すのだった。※全員じゃないということがこの作品の良いところであり、社会をリアルに表していますね。

生徒の心にはキーティング伝えた自由の精神が受けつかがれていたのだ。
初めは小さかった自由の灯火は少しづつその火を強め、やがては多くの人間を巻き込むほどの強い炎となった。
きっと、彼らのこの先の人生でどんなに打ちのめされようと、どんなに淘汰されようとも、心に宿ったその火が消えることはないだろう。
社会には多くの不条理が存在する。
組織に蔓延る規律・システムは強大な上、組織の意にそぐわない者はしばし淘汰される。
しかし、人生を小さなスケールで見てはいけない。
意思を示しながらも社会の厳しさを学びこの先の人生を生きていくのか、はたまた、自分のことをまともに見ていない親や教育者のレールの上で意思のない人生を走り続けるのか….
死ぬ時に、どちらが幸せだったと思えるだろうか。どちらが納得できるだろうか。
強大な相手を前に、敗北が決まっている試合もあるかもしれない。
本当の自分を押さえつけ、我慢が必要な時もあるかもしれない。
圧倒的権力を前に何もできない時があるかしれない。
組織・権力を前に人は無力だ。
しかし相手がどんなに強大であろうと「心」だけは誰にも奪えない。理不尽によって課せられた敗北も、いつの日か大きな勝利に掴むための過程であればそれは大いなる意味をなす。
自分の人生を守れるのは自分だけだ。
最後に、「死せる詩人の会」のノートの冒頭に読まれる言葉を送る。
「死せる詩人の会 冒頭の言葉」
「いまを生きる」死せる詩人の会 ノート原文ママ
私は静かに生きるため森に入った
人生の真髄を吸収するため
命ならざるものは拒んだ
死ぬ時に悔いのないように生きるため…
受賞歴
アカデミー賞(1990)
脚本賞
その他受賞歴
英国アカデミー賞・César award for best foreign film・David di donatello for best foreign film・NMEアワード 等
賞が多すぎてどれがすごいのかわからない….」という方はこちら!
👉 映画賞ってどれがすごいの?
ピーター・ウィアー監督の別作品
映画監督:ピーター・ウィアー
・2012年:ウェイバック 脱出6500km(監督/製作/脚本)
・2004年:マスター・アンド・コマンダー(監督/製作/脚本)
・1998年:トゥルー・マン・ショー(監督)
・1994年:フィアレス(監督)
・1991年:グリーン・カード(監督/製作/脚本)
・1990年:いまを生きる(監督)
・1987年:モスキート・コースト(監督)
・1986年:ピクニックatハンギングロック(監督)
・1985年:刑事ジョン・グロッグ 目撃者(監督)
・1984年:危険な年(監督)
・1982年:誓い(監督/原案)
「そもそも映画作りに誰が一番重要なの?」という方はこちら! 👉 映画作りのキーマンは誰?
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※映画配信サービスの情報は2019年11月時点です。必ず公式HPで情報をご確認下さい。


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